東北大震災医療支援記録A
宮城県北上地区
(H23年4月23日〜24日)


余震の恐怖と先が見えない不安・・・
高血圧の患者さんも
病気予防と心のケアが急務

NPO法人 医療・福祉ネットワーク千葉
理事長  竜 崇正

医療支援の様子


 
 
4月23日(土)雨

  6:00
千葉発 ― 9:00 安達太良SA ― 12:00 石巻日赤2階本部にて登録

 北上地区巡回。14時頃だったためか、公民館などの避難所にほとんど人はいなかった。北上総合対策本部を訪れ、保健師さんへ折り紙など寄贈。もう必要物品はほとんどないようだ。

 北上地区では瓦礫は少しずつ片付けられ、新しい電柱がたてられ、電線をつなぐ工事が進行していた。北上川に沿っての左岸の道路は、北上手前でやはり左に迂回。

 16:00 石巻日赤の2階本部で今回の診療医師登録をした。日本登山医学会ですでに予定が入っていた。

 17:00 リーダーの大阪厚生年金病院の道田部長(消化器内視鏡)、日赤医療センターの木村医師(救急)と打ち合わせ。医師は私を含め、内科、小児科、整形、内科など6名、看護師7-8名、薬剤師3名おり、豊富だ。

 6人の患者を診察、尿閉と高熱の患者は腎盂腎炎を疑いレッドゾーンへ。その他高血圧、風邪後のNSAIDS胃潰瘍、胃腸炎、前腕切創など6名を診察。5名が外来のみ。高血圧の患者は前回の相川避難所で私が指切創の治療中に居合わせた人であった。

夜になり大雨強風となり、20時頃大きな地震があったためか、それ以降患者が来なくなった。待ち患者もいなかったので、22時に早退を許可してもらい、道の駅へ。一人で道路情報センター裏の屋根の下で幕営。完全に風雨を防ぐことができ、快適であった。熟睡。


道の駅で野営
道の駅で野営
陥没した道路
地震で陥没、隆起した道路
倒壊を免れた家
かろうじて残った家屋



 4月24日(日)快晴


  朝6時に起床。大勢のボランテイア、被災者?が車で寝ていた。併設されている温泉に入ろうとしたが、大混雑であきらめた。多分被災者であろう。

  今日は日赤医療センター、大阪厚生年金と私の医師5人に看護師7人、薬剤師2人の体制である。小児科2名、整形外科1名、内科1名、外科1名である。腹痛、高血圧、怪我などの通常一次診療が多かったが、不安で不眠となり高血圧となった患者さんが数人受診した。

  中には血圧が
250を超えた、私の医師人生で初めてのとんでもない高血圧の患者さんも。緊急処置で170に下げたが不安が強く、石巻日赤精神科の先生に引き継いで何とか対応した。その方は被災後1か月の記憶がほとんどなく、自宅2階で生活可能ということで、雨漏りのする部屋で生活していたようだが、余震でさらに恐怖心が増したようだ。そうでなくても不眠不安で高血圧を発症した患者も多かったが楽しく診療できた。小児や妊娠中の患者など、診療に苦労する患者も多かったが、そのような患者には専門性のある院内の石巻日赤の先生も迅速に対応してくれ、本当に医の心が一つになっての医療体制の提供ができていると、驚き感激した。またこちらから指示すると、薬剤師さんがお薬手帳を作ってくれ、薬剤師さんの重要性も再認識した。

 石巻日赤前の酒屋で、石巻の日本酒「日高児」と被災して凸凹になり10円で売っている缶ジュースを大量に買った。14時に石巻をでて、20時半に千葉に戻った。疲れたが有意義な2日間だった。



石巻日赤前
石巻日赤の前で
医療支援者の会議
医療支援の皆さんと
道路にもがれき
道路にもがれきの山



おわりに


  今回は、被災者の死か生かがはっきりしている大災害である。生き残った人は、体の治療は数日で不必要になり、家族や友人、家、財産などすべてを失った喪失感、恐怖、先の見えない絶望感による心の問題が大きくなる

  さらに先の見えない地域復興への不安が追い打ちをかけている。医療支援は、避難所では病気予防と心のケアが重要となり、地域全体では、医療システムの崩壊による日常診療のサポートが重要になっている。被災した市立や町立病院や私立病院の再建にはお金と時間がかかり、容易でないと思われる。また医療従事者の確保も容易ではないであろう。現場にそれぞれの医師が飛び込んでサポートし、その中で現場から何をすべきか提案することが重要だとあらためて痛感した。