【四季折々のうた】はじめに 〜ノンフィクション作家・柳原和子さんとの魂の交流~

「四季折々のうた」
柳原和子さんとの思い出
“写真メール”を通じた魂の交流の軌跡
大西眞澄(看護師/NPO法人医療・福祉ネットワーク千葉常任理事/元千葉県がんセンター看護局長)

柳原さんとの不思議なご縁

ノンフィクション作家・柳原和子さん

ノンフィクション作家・柳原 和子(1950年3月19日-2008年3月2日)
東京生まれ。カンボジアの難民キャンプのレポートなどを雑誌に発表。タイ・カンボジア国境の難民キャンプでボランティアした経験をもとに執筆した『カンボジアの24色のクレヨン』でデビュー。世界中を回ってノンフィクションの筆をとる。1997年、がんに罹り、その経験をもとに、以後は“がん患者学”、医療過誤などの問題に取り組む。『がん生還者たち 病から生まれ出づるもの』、『告知されたその日からはじめる 私のがん養生ごはん』、『百万回の永訣』などを著す。

柳原さんとは、とても不思議な縁でつながっているような事柄が折々あり、それは今も続いているように感じています。私が千葉県立佐原病院に転勤の内示を受け、2004年3月に引継ぎを受けるために佐原病院に行ったときに偶然お会いし、挨拶をしたのが最初の出会いでした。また、柳原さんが『カンボジアの24 色のクレヨン』を執筆した場所は、私の故郷・伊豆松崎であったこと。さらに、その当時、柳原さんが毎日通っていた帰一寺住職の奥様である水野芙紗江さんと柳原さんとの再会に関わらせていただいたこと。 勤務先の看護学校に、柳原さんを撮り、アメリカにも同行したことのある元プロカメラマンの人が入学し てきたこと。 等々、時の流れとともに偶然の出来事が重なり、点が線となりびっくりする体験を次々したのは、見えない何が作用しているのかなーと思います。

柳原さんと始まったメール交換

佐原病院を退院した柳原さんに会いに、機名きんど夫婦、薄井さん、竜先生、根本さん、高柳さんと私の7 人で 2005年9月、早秋の京都を訪れ、南禅寺界隈・嵐山方面・比叡山などを案内していただいたととが懐かしく思い出されます。この旅の前後から柳原さんとのメールが始まりました。メールの内容は日々の些細な ことに加え、身近な花・風景写真を添えたものです。柳原さんとの関係は、看護師であ るというより、柳原さんの愛読者という立ち位置を意識していました。

月1 回のペースで連載されるがんサポートキャンペーンのエッセイ『南禅寺だより』(再々発した柳原さんが時々刻々の過酷なご自身の状況を、諮られることの数々)は、 私の関心をひきつけて離しませんでした。この柳原さんの麿法にかかったような状態が、 細々と持続的にメールすることでのつながりを後押ししていました。

「毎日メールを送るって約束ね」

2007年3月、柳原さんにとって鬼門の冬(11月頃から冬の間、柳原さんを苦しめていた抗がん剤の副作用など)と京都からの強行軍を、ホテル泊ではなく佐原の民家薄井さん宅で静かに癒し、翌日千葉での「支えあう会α」の講績会へ。 講演会の翌日は「柳原さんと行く福島県観音温泉j へ(東日本アート・トラックの雄である椎名急送さんのメルセデスベンツ製豪華サロンカーYUKAMARU で、南雲さん、椎名さんど夫婦、関さんど夫婦、平原さん、竜先生、土橋さん、真田さん、薄井さん、根本さん、高柳さん、私)、わきあいあいの寛ぎの旅でした。 そして旅の最後別れる際に、柳原さんから『毎日メールを送るって約束ね」と言われ、写真撮影とメール送信回数は加速されました。

柳原さん公式HP「南禅寺だより」「四季折々のうた」に写真掲載へ

こうした流れでその後、2007年12月柳原さんの公式ホームページ『南禅寺便り』の扉と『四季折々のうた』として、恐れ多くも素人の写真を掲載していただくことになったのです。看護師としての私は、『がん患者学』のあとがきに書かれている『がんは看譲の病かもしれません。がん患者において看護の重要性はもっと高まっていくで しょうj という言葉を励みにしていたのは言うまでもありません。 しかし、エッセイ『南禅寺便り』の中で、」 病状の出る人、再々発の入、過酷な入、看議師はここを…」「過酷な患者は捨てる医療になる。社会がその方向。志し、内側から何を歯止めになろうとするのか」「過酷な人ではなく、治った人の患者会。医師と 結託する』「むなしい」等々ここに書ききれない言葉の数々を胸に重く受け止めて…。

京都にて。柳原さん(右から4人目)を囲んで。

看護師の理想と現実を思う

私は何をよりどころにしてきたのか、改めて看護師であることを思いました。看護の理念は、「対象である患者さんを全人格的に理解し、患者さん中心の看護をすること」「看護とは、看護師対患者さんとしてではなく、人間対人閲としてその人を理解し関わっていく人間関係のプロセスです」というのが常識的なところです。しかし、この看護理念と現実の看護の状況は、あまりにも実行に移すのが難しいことをずっと体験していました。多様で加速進歩している医療を理解しながらの日常の仕事量は尋常ではなく、また、十人十色、物事に対する価値観、関心事も人それぞれの中で、わかっていても患者さんに寄りそう時聞が少ない状況です。加えて、高橋美智さん著『看護師であること』に番かれているように、患者さんと看護師は、看護という職業を介してのある意味では強制的・押し付け的な人間関係です。

「患者さん中心の看護」 と言いながら、理性の上で思考と、実際の上での行動との聞にはズレもあり、また無意識のうちに行動に対する責任回避や、自己弁護をしていると気づかされるともあり、また、看護師の目は患者さんの一挙手一投足に向けられ、わけても心の痛みにつながるような問題は、“そっとしておいれて““あれこれ詮索しないで” という扉を知らず知らずのうちにこじ開けようとしてしまう危険をはらんでいます。客観的な視点に立って患者さんを理解しようとすることが、医療の正しさとしての押し付けになる可能性をもち、必ずしも相手に止つての喜びに通じるものではなく、その根底に相互敬意・尊重ということがなければ、せっかくの知識も技術も生かすことが難しいのです。

今できる目の前の小さな事から積み重ねるしかない…

そうした中にあって、これまで数え切れないほど多くの患者さんたちと出会い、その生き方を通して学ばせていただきました。 その集大成が柳原さんとの出会いだったように恩います。こうして柳原さんとの恩い出を書きながら、自分の肌で感じ取ったものを、言葉で表現するととの難しさを痛感しています。医療は一人で出来るものではなく、「チーム医療の中で」「継続と連携の中で」、看護はますます多様で欠く事の出来ない役割を全うするために、私はどうすればいいのかと巡り巡って考えました。実践家としての私は、やっぱり今出来る目の前の小さな事から、それを積み重ねていくしかありません。「江戸小紋の文様の様に、型は小さいけど繋いでいくと大きなものになり、遠くで見ると無地に見え表面はさらりと、でもその繰り返しは粋であり、つなぎ目に細心の注意をJ払う」というような看護をしたいなーと思っています。

柳原さんは、ご自分が苦しく辛い中にありながら、「体が一番よ。頭や言葉でなく、体の叫びに敏感になって」と、原因不明の目の病で日毎に視カが悪化していく私のことをとても心配してくださっていました。そし2008年1月19日、柳原さんのお見舞いに来られた田口ランディさんにセカンドオピニオンとしての医師を紹介してとお願いされたの です。その後、私の自は見えるようになりました。
「柳原さん、本当にありがとうございました。」

そして、「柳原さん2008年1月23日の最後のメールを公表していいですか?」
『誰に対しても感情のしこりを個人として残すようなおこがましさ、カは微塵も無く、すべて医療の課題として語ってきただけで、私に関わった先生方の方がつらかっただろうと…。私は人を怨むようなげすではありたくなかったから、身を張って皆様に語り続けたわけで。 さまざまありがとうと伝えてください』と…。

最後に、2008年2月7日の ホームページに載った柳原さん“贅沢な希望”の中の言葉。
『それから、医療について 万感の思いなり 医療者と患者 健常者と患者 この深い溝は私たちの深い深い溝を解く鍵になりうると
私は確信している』
この言葉は、柳原さんからの宿題です。柳原さんとの出会いの意味は、私の世界を広げ、深めていくためのこのうえない場であり、今も柳原さんに魅了され続けています。

(2012 年 1 月 吉日 大西眞澄)