【東日本大震災・医療支援】Dr.竜の医療支援記録⑦_2011.4~9の石巻市周辺の被災地の様子、復興の進捗などを報告します。

 

 

2011年3月11日、東北地方を中心に発生した東日本大震災。被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
当NPO法人では発生直後から医療物資の運びこみ、医師を含む支援チームを被災地に派遣してきました。宮城県石巻市での診療支援を続けている竜崇正理事長が現在の石巻市周辺の様子と復興の進捗についてリポートします。

医療体制崩壊の宮城県石巻市
草の根支援で患者を救う
初対面の医師同士でもチーム医療

3月11日に東日本を襲った未曽有の大津波は太平洋沿いの集落を廃墟とした。当NPO法人では東北自動車道路が開通した直後の3月24日から支援に入り、4トントラックで生活必需物資や医療物資を届け、各地の実情を見て回った。その結果、最も被害が大きく医療システムが崩壊している宮城県石巻市での医療支援を行うこととした。

石巻市、牡鹿半島周辺

石巻市は、宮城県沿岸北東部に位置している。東日本大震災では、全被害の2割を占めた。沿岸部のすべての病院、診療所
が津波にのまれ、海岸から4.5㎞内陸にあった石巻赤十字病院だけが津波の被害から免れた。

4月14日に車で石巻市に入り、特に集落が全滅している旧北上町十三浜の各避難所を巡回訪問した。しかし既に、石巻圏合同医療チームが避難所をカバーしており、支援の必要性は少ないと判断した。一方、開業医を中心とする一般医療提供体制の崩壊と市立病院の機能停止により、本来重症患者のみ担当するはずの日本赤十字社「石巻赤十字病院」(以下、石巻日赤病院)には一次救急患者も殺到し、石巻日赤病院の診療支援が最も重要であると考えた。特に勤務が過酷となる土曜日の17時から24時までと、日曜日の8時半から13時までの医療支援なら継続可能と考え、日本登山医学会や医療構想・千葉などと協力して行ってきた。私は4月から8月の間に5回の医療支援に入った。

初めて会う他施設の医療者とも協力して、一医師として被災地域に貢献できる喜びを感じた5か月であった。患者数は8月に入っても減少することはなく、被災地の医療体制の再建はまだまだであると感じている。全滅した集落での瓦礫撤去は進んだが、再建はこれからである。周囲が切り立った山で囲まれているこれらの地域では、政府の言う高台移住は不可能ではないか思う。放射能被害がさらに被災地の復興を困難にしている現状では、まだまだNPOなどによる草の根支援が大事だと考える。

被災地の様子、復興の兆し

医療支援活動を行った石巻市の各地を撮影。4月の震災直後から5月、7月とわずかな時間にも、がれきの撤去や道路の復旧など少しずつ片付けなどが進んでいる様子が分かる。一歩ずつ、着実に復興への歩みを進めている。(撮影:竜 崇正理事長)

石巻市雄勝(おがつ)町

雄勝町は、石巻市の中心部から北東方向に車で一時間のところにあり、牡鹿半島の付け根にあたる海辺の町である。上隣には南三陸町があり、切り込んだ湾、リアス式海岸のある静かな漁村だ。今回の震災と津波で建物がことごとく押し流され、ここは「ひとつの町が まるごと押し流された」という状況に陥った。

4月の様子
7月の様子

北上町にっこりサンパーク周辺

 

にっこりサンパークは、小高い丘の上にある総合運動公園。クラブハウスなどの施設も備え避難所として活用されていた。北上町の様子が一望できる。

4月の様子
7月の様子

白浜地区

太平洋と北上川の雄大な河口を眺められる遠浅の海水浴場。夏から初秋には、家族連れや旅行客でにぎわい、地引き網が人気の観光地だった。漁業も盛んでヒラメやカレイ・スズキ・イシモチ・ウグイと魚種も豊富で、その場で食べられる浜料理でも有名。

4月の様子
7月の様子

十三浜地区

北上川の河口から、南三陸町や志津川方面に突き出た半島の町。ワカメの養殖漁業を中心とする生業で生活する住民が多い。震災では、入江周辺の家などはすべて津波に押し流され、跡形もなく壊されていた。

4月の様子
7月の様子

大指(おおざし)地区

仙台市から車で2時間ほどのところにあり、ワカメやホタテの養殖などの盛んな地域。震災では、高さ18メートルの津波が襲い、漁港近くの集落がすべて流された。漁船や作業場も損壊した。今どき、珍しい「多子低齢化」の地域で住民180人のうち50人が、幼児から高校生までの子供たちを占めている。ここで、子供の遊び場を中心とする交流スペース「こどもハウス」の建設計画が、震災後早い段階から持ち上がった。

4月の様子
7月の様子

災害対策本部、日名所 北上町中学校体育館

石巻市立相川小学校周辺

4月の様子

がれきに埋まった学校

5月の様子

石巻市立吉浜小学校周辺

4月の様子
7月の様子