【東日本大震災・医療支援】Dr.竜の医療支援記録➃_2011.5.28~5.29_傷の汚染、ぜんそく、高熱、中耳炎…症状軽くても受診が被災者の心の拠り所に。医師ら“即席チーム医療”でも固い団結力

5月28日(土)

NPOとしての3回目の石巻日赤の医療支援活動を5月28日(土)と29日(日)行なった。今回は日本登山医学会の小野看護師、日大の原田チーム(医師2名、医学生2名)と協力しての活動である。

朝6時に東京・新橋駅で、日本登山医学会員の国際親善病院看護師の小野さんと待ち合わせて、車で一路東北自動車道路を北上して石巻へ向かった。自衛隊などの支援車両はほとんど見なくなり、一般乗用車を非常に多く見かけた。途中安達太良SAで休憩したが、多くの人でにぎわっており、高速道路もSAも震災前の賑わいに戻りつつあるようだ。昼12時に石巻日赤に到着し、2階の本部で登録をしてからいつもの道の駅「上品の郷」で昼食休憩。道の駅は相変わらずの一杯の人であった。前回はなかった海鮮丼など海の幸のメニューも復活していて、少しは石巻の食も楽しめる感じになっていた。13時に最も被害のひどかった北上町地区へ向かった。北上川左岸の堤防の上の道を30分。前回よりも道は走りやすくなっており、橋浦で標識に沿って堤防から離れて迂回し、北上地区の小学生が合同で通う橋浦小学校前の前を通った。この場所は北上川より低い位置にあり、すぐ脇まで津波に襲われており、屋上も北上川堤防よりも低く思え、安全性が危惧される場所のように思われた。北上町の瓦礫の撤去はだいぶ進んだといっても、まだ1/3程度か。海岸沿いの住んでいた所は建物が全壊し、集落間の山は険しく仮設住宅を造る場所の確保は極めて困難なように感じた。

がれきの撤去はまだまだこれから

夜勤診療に入る
傷の汚染、喘息、下血、高血圧…

17時から石巻日赤病院の一次救急となるイエローゾーンで診療に参加した。もうすでに登山医学会の日大の原田チームも診療していた。そのほか、名古屋日赤などの日赤病院、九州や島根玉造の厚生年金病院の医師や看護師が忙しく働いており、早速私と小野看護師もその中に加わった。医師6名、看護師5名の布陣である。

患者は途切れることなく来院。前回よりも人数が増えており、石巻地区の医療システムはまだ崩壊したままだと感じた。怪我した患者は傷の汚染が強く、喘息、高熱、下血、中耳炎、など多岐にわたった患者が来院している。不眠、不安からか200を超える高血圧患者が多いのも震災の特徴のようだ。患者の年齢、症状などがメモ書きされた診療申し込み用紙が受付から運ばれ、診療スペースのボックスにいれられる。その用紙を医師が見て、診察する患者を選んで看護師さんに伝えて、診察室に呼び入れる。4-5歳くらいまでの小児は全て九州厚生年金病院の小児科医である今井先生が担当した。選択されない患者や症状が良く分からない患者は、看護師が病状を良く聞いてトリアージし、医師に割り当てる。その医師が得意でない分野は他の医師がサポートして診療にあたった。私が診た高熱の8才の患者は、点滴と解熱の座薬の挿入で対応したが、小児科医でないことや高熱で時々体が震えるので、両親は非常に不安がっていた。しかし小児科の医師が診察の合間に、この患者の診察と両親への説明もしてくれたため、両親も安心し私も面目を保つことができた。

このように日常診療ではできないようなチーム医療が、初めて会う看護師や医師などの協力で行えていることに本当に感動した。電子カルテでデータも画像も端末で複数の目で確認できるのもその一因であろう。時々、日赤の内科系や外科系医師も手伝ってくれるなど、心強かった。この日の准夜帯は約80名の患者が来て、そのうち半数は小児であった。深夜12時までほぼ切れ間なく患者を診たが、満足感と心地よい疲れを感じながら病院を後にした。同じ時を共有したイエローゾーンの仲間と記念写真を撮ったのはいうまでもない。

コンビニで石巻の銘酒「一の蔵」の小瓶とワインを買って、テントで乾杯をした。美味かったこと。

チーム医療でテキパキと

受診者は深夜まで途切れることがなかった

それぞれの得意分野を生かす

日本登山医学会の看護師・小野さん(左)と

5月29日(日)

翌朝は、朝8時診療開始。出足は患者が少なくのんびりしながらの診療である。今日は日赤グループが交代でいないので、外部医師は少なく4名で、看護師も玉造厚生年金病院の看護師2名と小野さんの3名である。午前9時30分を過ぎてから患者がどんどん来るようになった。相変わらず小児患者の多いこと。私は赤ちゃんの肛門周囲膿瘍切開、頭部坐創の縫合など久しぶりに外科医となったが、それ以後は続けて3名の中耳炎患者を診て耳鏡も駆使できる耳鼻科医にもなってしまった。あまりの患者の多さに、石巻日赤病棟の看護師さんも駆けつけての診療となった。

13時になり、私たちの帰る時間が来たけれども去り難く、抱き合って別れを惜しんだ。涙が出そうだった。被災地の方を護ることに少しでも貢献できたかなと思いつつ、雨の中14時に石巻日赤を後にした。

途中、竜は福島県矢吹町のなじみの温泉で1泊した。原発事故の爆発後2週間の間一族で逃げていて、気を取り直して戻って、壊れた旅館を1か月かけて修復したそうだ。素晴らしい温泉だったが、福島の方の心の傷も大きいと感じた。

≪日本登山医学会・小野看護師の感想≫
週末だけでも支援できると聞いて参加
普段の仕事では味わえない充実感

震災からずっと何かお手伝いできることはないものかと考えてはいましたが、仕事や家庭があり、なかなか動けずにいました。竜先生の「週末だけでも支援できる」というお話を聞き、今回参加させて頂きました。看護師では何もできることはないのかもしれないと不安がありましたが、現場に入ると同時にフルパワーで動き、一息ついたのは残り1時間。各地から集まった即席のチームで意気投合し、普段の仕事では味わえない不思議な充実感がありました。軽度の症状でも心配で受診する患者さんが大変多く、受診して大丈夫と言われるだけで安心している様子をみると、一次救急の黄色エリアを充実させることが、石巻市の方々の心のケアにつながるのではないかと感じました。またお手伝いできればと考えています。

被災地の様子

がれきの撤去はこれからが本格的な作業。それでも、少しずつ街は再生しようとしていました。石巻の医療システムは回復しておらず、基幹病院の石巻日赤のサポートはまだまだ必要と感じた。6月には厚生年金病院グループの支援も終了するようなので、石巻市民を護るためにも、まだまだ継続的な支援が必要と感じた。多くの方の協力をお願いしたい。