【四季折々のうた】「四季折々のうた」ホームページでの再掲に寄せて
【四季折々のうた】ホームページでの再掲に寄せて
また柳原和子さんと会えるかも
記憶の糸をたぐり寄せてみたい
大西 眞澄(看護師/NPO法人医療・福祉ネットワーク千葉常任理事/元千葉県がんセンター看護局長)
この写真と文章は、ノンフィクション作家 柳原 和子さん(1950.3.19-2008.3.2)の「南禅寺だより」と題された公式ホームページに掲載していただいていたものです。久しぶりに、ネットを検索するとまだホームページは残されており開いてみました。ちなみにホームページの壁紙は、私が当時の勤務先だった千葉県立佐原病院に通勤途上の朝に撮った栗林です。
柳原和子さんの著作
あれから十数年たったとは思えないほど鮮明に、柳原さんとのことが種々蘇ってきました。(私は基本的には、一愛読者として関わらせていただいておりました)下記の写真は柳原和子さん著作のものです。
柳原さんが亡くなられた後、編集者・工藤玲子さんが書いた本。
千葉県がんセンター患者図書館に作られた柳原さんのコーナー
千葉県がんセンター患者図書室「にとな文庫」の書棚です。
右側に立てかけられている赤いファイル3冊は、インターネット「NHKがんサポートキャンペーンの連載エッセイ南禅寺だより」の初回『心の在処』(2004.12)から、最終回(56回)『拝啓 がん様 十年をありがとう』(2007.3)まで全てを印刷して綴じてあるものです。柳原さんの心の揺れ動きを、言葉で表現されており、他ではなかなか目にすることが出来ない貴重なものです。
2007年11月、「四季折々のうた」コーナーを開設した時の第1回の写真は、私が越後湯沢の友人宅(南雲幸恵さん)を訪れた時のものです。そこから、2007年冬~2013年春まで 約100枚の写真を載せていただきました。初回のみ柳原さんの歌が一緒に載りましたが、その後は歌を詠むのが困難な状態になられ、2008年3月2日に帰らぬ人となりました。
思い出は歳をとらない…
柳原さんとの記憶をたどる
『追憶の糸をたぐり寄せると、鈴の音 転がすように過去たちがあの時のままで駆け寄ってくる。私の心もあの時のまま いくつになっても思い出は歳をとらない。』と、宮本早苗さんが栞に書かれた言葉のとおりです。
NPO法人医療・福祉ネットワーク千葉のホームページ担当の風間さんから、「四季折々のうた」コーナーの再掲載のお話があったとき、また柳原さんと会えるような感覚になり、すぐ「いいですよ。お願いします」と返事しました。
柳原さんと直接は、約2年ちょっとの間のお付き合いでした。私の手元に残っている写真は下記のようなものです。
2005年 9月
千葉県立佐原病院を退院した柳原さんに会いに、早秋の京都を訪れた時。
2007年 3月
患者会「支えあう会α」の講演会に千葉に柳原さんがきた翌日、ベンツの豪華なバスに乗って一泊旅行した時。
2007年 8月
新潟県長岡市の花火大会を見に行った時。
2008年 4月
ご家族が、柳原さんご本人の意思を尊重され、処女作「カンボジアの24色のクレヨン」を執筆した西伊豆松崎町の海に散骨された。
写真は、49日の法要が行われた臨済宗の古刹 帰一寺。執筆していた頃、毎日のように帰一寺に通っていたそうです。ご住職の奥様(水野様)は、柳原さんが病気療養中、なにかと支えてくださっていました。
2009年 3月
京都・法然院で一周忌の集いがありました。発起人は、作家の田口ランディさんほか。法然院は柳原さんが大好きだったところです。
南禅寺。柳原さんが暮らした京都を最後に離れるとき、ここでひざまずき、しばらく祈っていたとお聞きしました。
「毎日写真を送る」の約束
日々の風景や花々を写真に撮り、送り続ける
2007年3月の旅行の後から、柳原さんとの約束「毎日写真を送る」を守り、日々の風景や花々を写真に撮って送り続けました。
この「四季折々のうた」の中には、その時の写真も何枚か含まれています。
そして、この写真集は、私自身が柳原さんの亡くなったことを受け止めるための「鎮魂を祈る装置」だったように思います。
でも、今回NPOホームページに再掲していただいたものは、ただ単に写真そのものを楽しんでいただけたら幸いです。
追伸。千葉県がんセンターに行かれた折は、ぜひ患者図書室「にとな文庫」お寄りください。とっても親切で温かい司書さんがいらっしゃいますよ。柳原和子さんの著書コーナーもぜひご覧ください。