当法人常任理事・大西眞澄氏が、令和3年秋の叙勲「瑞宝双光章」を受章されました。寄稿をいただきました。

大西眞澄さん、令和3年秋の叙勲で「瑞宝双光章」を受章
元千葉県がんセンター看護局長・NPO法人医療・福祉ネットワーク千葉常任理事

元千葉県がんセンター看護局長で、当NPO法人医療・福祉ネットワーク千葉常任理事をされている大西眞澄さんが、令和3年秋の叙勲で「瑞宝双光章」を受章されました。大西さんは看護師として長年、地域医療・看護の推進に尽力されました。常に患者さんに寄り添う看護の在り方を追求し、後進となる看護師の育成にも取り組んで来られました。現在は、看護小規模多機能型居宅介護施設カンナ・ナーシングホームかわどにて、看護職員として勤務され、活躍されています。

そして、いつも穏やかで、患者さんや周りの方への気配りを忘れない優しい大西さんのお人柄に接して救われている方も多いと思います。また、お忙しい日々の合間にもウォーキングや美術館巡り、写真撮影なども楽しんでおられます。

令和3年11月24日に千葉県庁にて、秋の叙勲・褒章受章者の伝達式が開かれ、熊谷俊人知事より伝達をいただいたとのこと。12月2日には、当法人でも竜理事長よりお祝いの花束贈呈を行いました。

当NPO法人、竜理事長(左)より大西さん(右)に花束を贈呈

大西さん、叙勲受賞本当におめでとうございます。
今回は、叙勲受賞のご報告を兼ねて大西さんに看護師として歩まれたこれまでの人生を語っていただきました。

【寄稿】
「瑞宝双光章」を受章して
大西眞澄

このたび、令和3年秋の叙勲で瑞宝双光章を受章するという栄誉に浴しました。連絡をいただいたときは、思いがけないことで最初戸惑いましたが、自分一人のことではなくたくさんの方のおかげ様あってのことと思い直しお受けすることにいたしました。この場をお借りして、これまで出会った方々に「感謝!」の気持ちをお届けいたします。本当にありがとうございました。

11月3日に新聞紙上で発表されました。

そして、11月24日に千葉県庁で熊谷知事さまから伝達されました。下記の写真は、熊谷知事さまのTwitterに24日に掲載されていたものです。

同日、県庁で県立病院看護局長会議が開催されており、みなさまにご挨拶ができました。それぞれ県立病院も歴史を重ね、その時々の時代を担ってきた先輩たちの最先端に立っている現看護局長のみなさまと一緒に写真を撮っていただきました。

下記の写真は、新聞での叙勲発表の後11月8日に、私の現在の職場「カンナ・ナーシングホームかわど」にご挨拶に伺ったときのものです。みなさまに喜んでいただきました。

10社以上から額などの豪華なカタログが届きました。
カンナの福井社長さんから「賞状は額に入れたほうがいいですよ。訪問看護で伺ったお家に飾ってあるのを見る機会があり、それはご家族にとっての誇りになっていましたよ」と額に入れ掲示することを勧められ写真のようにしました。

額を取り付けに来た方が、表彰状について説明してくださり(日本国天皇の透かし紋があることや、名前は直筆で印刷ではないこと、番号は明治から受章した人の通し番号で一つしかないことなど)、これは貴重なものであると改めて知りました。

狭い家なのですが、みなさまから頂いたお花でこのような雰囲気になりました。

多くの方々から電話や電報、メール そしてお花などをたくさんいただきました。
下記は、NPO医療・福祉ネットワーク千葉からいただいた電報(ブリザードフラワー付き)と、金平糖さんからいただいたアーリッカトンツウです。

この度の受章を機にみなさまからのお祝いの言葉を数多くいただき、伊豆松崎で育ち、高校を卒業してから静岡市での看護学校や病院時代のこと、そして千葉に来てからこれまでのことが走馬灯のように思い出されました。
たくさんの患者さん達、先輩・同僚看護師・医師・その他医療職関係・事務職の方々の中で仕事させていただいたのだなぁと感慨深く、懐かしい時間を持つ事ができました。その一部をつらつらとお伝えいたします。

看護師としての出発点
1976年4月、千葉県がんセンターに採用

千葉県には、1976(昭和51)年4月、24歳で千葉県がんセンターに採用されました。当時は病棟を新たにオープンする頃で、高橋看護部長さま、その後の吉岡看護部長さま、そして、内山師長さま、渋谷師長さま、塚本師長さま、石井主任さまなど個性の強い方々の元で鍛えられました。でも、山下さん、中村さん、川上さん等々と一緒に結構自由に楽しくやっていたように記憶がよみがえりました。親睦会のワンゲル部で長山先生や崎山先生と奥秩父などの山に登ったり、病棟対抗のソフトボールの試合などに参加していました。 結婚すると看護師をやめる人の多かった時代ですが、出産後も仕事を続けられたのは皆様のおかげでした。

千葉県がんセンターのワンゲル部の皆さんと奥秩父に行った時の一枚(前列左端が大西さん)

1989(平成元)年5月。37歳で看護師長にさせていただきました。茅野さん、亀田さんはじめとするスタッフのみなさまにはたくさん助けられました。教育委員会の担当になった時、中堅看護師研修にリフレッシュを兼ねて1泊2日の研修を順天堂大学スポーツ健康学部の井上准教授を講師に迎えて行いました。笠森観音近隣の山歩きや、蓮沼地域の神社仏閣を巡るオリエンテーリング、印旛沼近くでカヌー体験、これらを通してチームの中でリーダーシップの実践力を学んでもらう企画だったと、鮮やかに思い出しました。現在の県立病院看護局長さん達や副看護局長さん達(がんセンター出身の方)の多くが受講生でした。

がんセンターでちょうど20年間働いた年の1996(平成8)年4月。44歳で 副看護部長として救急医療センターに転勤になりました。救急では、右も左もわからない中、礒辺看護部長さんはじめ川上師長さん、権平師長さん、石坂師長さん、長友師長さん、小屋師長さん、そしてスタッフのみなさま方に快く受け入れていただきました。当時教育担当の仙福師長さんと一緒に、日医大北総病院のアートセラピーの方を講師に招き、研修した記憶がよみがえりました。

ここからのその後は、県庁事務職の方々のように短期間で転勤を繰り返しました。(副看護部長経験はたったの2年間でした)

46歳で精神科医療センターへ
看護部組織の在り方を示す「看護部ガイダンス」や「感染対策ガイドライン」の作成に取り組む

2年後の1998(平成10)年4月。46歳で看護部長として精神科医療センターに転勤。当時、精神科の急性期を担う病院として、また在院日数約40日とけた違いに短く全国的に最先端を行く有名なところで、計見センター長をはじめ石川師長さん、渡辺師長さんなど全職員が誇りをもって仕事をされていました。精神科の訪問看護も太田保健師長さんを中心に実践していました。 ここでは、看護部組織としての在り方を示した「看護部ガイダンス」を作り、全看護職員に配布。また、「感染対策ガイドライン」も整理し、ある意味新しい風を吹き込んだと思います。

2000(平成12)年4月。48歳で県庁病院課の主幹 “特命事項:看護師確保、定着対策” として転勤になりました。この時は、看護部長さんたちの中で、一番年下で看護部長経験2年しかない時でした。さらに、県庁の中で何もわからず、ものすごいプレッシャーの中に居り、あっという間に白髪が増えた記憶があります。こんな私を主幹にしたのだからできなくて当たり前と開き直ってやるしかありませんでした。当時、病院課の高岡課長さんや、宮本副課長さん、藤田副主幹さん、吉田さん、牧野さんといった優秀な方々にサポートしていただき仕事をすることができました。

県庁内の会議室で開いていた看護部長会議や副看護部長会議を、各県立病院に集合しそこの会議室で、持ち回りで順番に開催しました。会議の前に病院長からお話を伺う時間を設け、また実際訪れることで各病院の雰囲気を直接感じとり、お互いの病院のことが身近に感じられるようになったと思います。

千葉県庁での仕事
エキスパート看護師表彰制度の新設
看護管理者や認定看護師育成の追い風に

また、エキスパート看護師表彰制度を新設できたことは、その後 県立病院の中で看護管理者や認定看護師育成の追い風になったと自負しております。東金病院で看護師が直接かかわる医療事故が発生し、その対応をした覚えがあります。その後 事務職の方のお力で県庁生協保険に看護師賠償保険ができましたが、これは看護協会の賠償保険より先に作ったものです。

2002(平成14)年4月。50歳で東金病院の看護部長で転勤。平井院長先生のもと医療安全に取り組みました。ここではがんセンターで一緒に働いていた茅野副看護部長さんとまた一緒になり、とても助けていただきました。そして医療事故当事者の看護師と直接関わるなどしました。東金病院は、患者さんたちの持ち味が闊達で漁師気質のような方が多かったなという印象でした。

52歳、県立佐原病院へ。看護局長としての重責
地域医療を担う訪問看護ステーション開設に奔走
県からの「県立病院がやる事ではない」の言葉にもめげず…

2004(平成16)年4月。52歳で佐原病院の看護部長で転勤。翌2005(平成17)年4月には、新たに設けられた看護局長に昇格しました。赴任早々、前・高柳副看護部長さんから「私たちは訪問看護がしたい」との要望がありました。地域の医療を担うために県と掛け合いましたが、その当時「それは県立病院でやる事ではない」と蹴られました。当時の医療制度の中、出来る範囲で、高柳さんや現 阿蒜看護師長さんたちの尽力で、外来の一角を訪問看護室としスタートしました。その後 訪問看護は着実に実績を残し訪問看護ステーションを開設、現在ではなくてはならない佐原病院の中核事業として、そして地域の方々から頼りにされており、誇りに思います。

ノンフィクション作家・柳原和子さんとの出会い
患者さんと医療者の溝について、深く考えるきっかけに

また、佐原病院を応援して下さる地域の方々、椎名さん、薄井さん、カフェサリの筒井さんなどと身近にお話しできたことはこれまでになかった出来事でした。さらに、竜院長先生の治療を受けに来た 柳原和子さん(ノンフィクション作家「がん患者学」などの著者)と知り合い、その後亡くなるまでずっとお付き合し、関わらせていただきました。 患者さんと医療者の溝(立場や気持ち)をとことん知らしめてくださいました。

私の佐原病院時代中ですが、千葉県がんセンターに転勤された竜院長先生が、トップダウンで2006(平成18)年5月に、患者図書室「にとな文庫」、「患者相談支援室」、がん患者当事者による相談コーナー「ほっとステーション」を設置されました。山田看護局長さんの時です。

「ほっとステーション」には、野田さん(患者会支えあう会αの副理事)に続き、斎藤さん(患者会アイビー千葉の代表者)がそこで相談を受けていました。その後 このお二人は「患者相談支援室」のスタッフになり、がんピアサポーターの育成にも力をお借りしました。また、「にとな文庫」には、医療専門司書の下原さん、越智さんに続き 2011(平成23)年11月に高頭さん、2014(平成26)年6月に鶴岡さんがお出でになり、司書さんたちによる患者さんたちの居場所づくり、支援の場となっています。これらは、竜院長先生はもとより、ある意味柳原さんのおかげだったかもしれません。

56歳で千葉県がんセンター看護局長に
看護師の主体的なステップアップのための目標管理制を導入

2008(平成20)年4月。56歳で 千葉県がんセンター看護局長で転勤。その当時は 体調を崩していましたので 新しく変化した医療システムの詳細に対応していくことが難しかったですが、副看護部長さんたちに多くを委譲し看護局の運営を乗り切ることができました。当時の茅野副看護局長さん、前嶋副看護局長さん、竹中副看護部長さんたちにはとてもお世話になりました。特に、看護師育成に向け、クリニカルラダーを用いて継続教育を段階的に進めていく取り組みと、看護師それぞれが主体的に取り組みステップアップしていけるように目標管理制を導入したことが思い出されます。
* R3年現在の千葉県がんセンター 看護局の看護師継続教育
URL: 継続教育システム/千葉県がんセンター

野田看護専門学校校長としての2年間
東京パラリンピック2020代表の車いすバスケ監督・及川晋平さんとの交流も

2010(平成22)年4月。58歳で 野田看護専門学校の校長として転勤。学生や教員の学ぶ 場の充実として図書室の整備など行いました。 医療現場とはまた異なり、多種多様な看護学生の実態を知る機会になりました。また、「社会福祉論」の講師として千葉市から遠く野田まで来ていただいた佐藤真生子さんと知り合いました。彼女はこの頃「ともいき社会を夢見て活動する市民グループ金平糖」を立ち上げ今に至っています。

またここでは、東日本大震災で練習場所を失った車いすバスケチーム「NO EXCUZ」に夜間体育館を提供しました。千葉県がんセンターの患者さんであり、東京パラリンピック2020の日本代表男子車いすバスケットボールの監督・及川晋平さんのチームです。この機会は、看護学生にとっても非常によい体験になりました。下記は、看護学生に特別講義・体験学習をしていただいたときの写真です。

看護助手さん、お掃除の方…医療現場を支えるすべての方に感謝の気持ちで挨拶する
一貫して意識してきたこと

そして、2012(平成24)年3月。60歳となり定年退職しました。すべての職場を通し一貫して意識していたことは、看護助手さん、お掃除の方などなど、裏方さんとして医療現場を支えてくださる方々に感謝の気持ちを込めて挨拶することでした。

定年退職後も再雇用で千葉県がんセンターへ
地域統括相談支援センター
ピアサポーターの育成、サロン開設と運営

退職直後の2012(平成24)年4月から、再任用 副主幹で再び千葉県がんセンターに戻りました。県からの委託 新規事業である「地域統括相談支援センター」で、がん対策推進「相談・情報提供」の業務を行いました。 退職前 最後の2年間、病院現場を離れたことで気持ちの上でもがんセンターに戻る事ができたかなと。そして当時の看護局長渡辺尚子さんのおかげだと思っています。

この全く新しい事業では、がんピアサポーターの養成研修、その後のフォローアップ研修、また、ピアサポーターの活躍する場として、県下のがん拠点病院などでのピアサポーターによるサロンの開設と運営をしました。このサロン事業を継続し充実するために、参加するピアサポーターの方々は有償としました。現在、コロナ禍の中で オンラインでの相談活動と、がんセンター新病院内の「患者図書室にとな文庫」内で、平日交代でピアサポーターの方々が在中して活動は継続されております。

また、情報提供として、地域がん情報「千葉サポートブック」の小冊子作成とその更新をしていました。 さらに小冊子を元にしたインターネット上の千葉県がん情報「ちばがんなび」作成(原案)の最初に関わらせていただき、こちらも各種の最新情報や追加情報を健康福祉部の担当者の方に提供していました。

 地域がん情報「千葉県がんサポートブック」の初版冊子

千葉県がん情報「ちばがんなび」

URL: ちばがんなび 「千葉県がん情報」

ここでの5年間の活動から、「地域統括相談支援センター」の業務指針と具体的内容を整理しファイル化してまとめ、2017(平成29)年3月、65歳で退職しました。

2017(平成29)年5月。 65歳で千葉市青葉看護専門学校に臨時職員採用。実習指導教員として、実質約半年、地域看護分野の訪問看護ステーション実習に携わりました。これは当時青葉看護専門学校校長であった恩ある渡辺尚子さんに依頼されてのことです。でもこの時の体験が次のステップになりました。

現在、看護小規模多機能型居宅介護にて
臨時看護職員として再出発

2018(平成30)年1月。66歳で、カンナ・ナーシングホームかわど(看護小規模多機能型居宅介護施設)に臨時看護職員(スタッフ)として週3日勤務し、現在2021(令和3年)に至っております。自分の得意とすることを自由にさせていただき、また体力低下防止とボケ予防になっているかな~と思っております。

URL:カンナ訪問看護ステーション カンナ・ナーシングホームかわど

長々となりました。書ききれないことが多々ありますが、これまで読んでいただきありがとうございました。 今後ともよろしくお願いいたします。

大西眞澄 拝